2016年6月24日金曜日

小説「月に降る雨」7

遠くを見る目をして、希伊はやっと自分の出自(しゅつじ)を語りはじめた。
「わたしが小さい頃、微かな記憶しかないから相当幼い頃だったと思うの。母がわたしが幼すぎて、まだ言葉を理解していないだろうと思ってつぶやいたんだと思う」
「うん、なんて言ったの」
龍一は訊いたのだが希伊はまだ遠い目をしていたので、もう口を挟むのはやめて希伊の好きに任せようと思った。
「母が言ったの。『あなたは、うちの子じゃない』って。冷たい目をして」
希伊はふうっと息を吐いた。
「そんなことは幼い記憶だからずっと忘れていたのよ。小学生になっても全く思い出すことなんてなかった。でも中学二年の夏だったかな、突然その時の記憶が蘇ってきて。もちろん最初は夢にでも見た虚実の記憶が、まるで実体験したかのような錯覚か思い違いだと思ったわ。既視感っていうか、そう、デジャヴってやつね。でもわたしの胸の中でどんどん具体性を帯びてきて、確かな証拠もないのに確信に変わり始めたのよ。高校生になった時に、家に遊びにきた部活の友だちに昔のアルバムを見せたら言われたの。希伊ってお父さんにもお母さんにも似てないねって。世の中には全く似てない親子だってたくさんいるのは知ってるし、普通ならそうなんだよねって笑い飛ばせたはずなんだけど、わたしには無理だった」
龍一は黙って聞いていた。
「確かに似てないのわたし。父とも母とも。どうしたらいいんだろうと悩んだわ。あの時の幼い記憶がもっと鮮明になって目の前に迫ってくるのよ。直接親には訊けないし、たとえ訊いても本当のことを言ってもらえるとは思えなかったし。仲のいい友だちはたくさんいたけど親友と呼べる子はいなかったから、誰にも相談出来なくって。もし当時龍一に出会っていたなら、龍一には打ち明けられていたかもしれない」

その後希伊はずっと話し続けた。今まで龍一と過ごした時間の中の、すとんと抜け落ちた空白をちょっとずつ埋めるかのように。

普通の高校生の女の子が自力で自分の出自を調べるにはあまりに大きな問題だった。幸い永山家は上場会社の創業者で有り余るほどの金を持った資産家だ。希伊は十分すぎるほどの小遣いをもらっていたが、母に嘘をつき特別な理由をつけてかなりの額のお金をもらうことに成功した。それを持って街場の探偵事務所を探し歩いた。なるべく小さい事務所を探して選んだ。大手では高校生では相手にしてもらえないと思ったからだった。何軒か断られたのち、女事務員一人だけの実直そうな男がやっている小さな探偵事務所にたどりつき調査依頼を受けてもらえた。3週間後に事務所へ電話する約束だった。電話してみると所長の返事はこの調査はまだ時間がかかるからと、まだ終わっていないとのことだった。2ヶ月かかったのち、やっと週末に事務所に来て欲しいと言われた。
「調査報告書をもらった時にその所長さんが言ったのよ。『永山さん。世の中には知らないままでいたほうが幸せってことがある。知らなきゃ良かったってあとで後悔しないかい?』その言葉を聞いて漠然と悪い予感が当たったと察したわ」

希伊の父、永山剛(ごう)は先代から受け継いだ数店舗規模の飲食店を違法ぎりぎりの手段でチェーン拡大し上場会社にまで大きくしたうえ、更に財界にも顔を出すようになった経営のやり手だった。英雄色を好む。成り上がって大金を手にした者にありがちな傾向だ。剛もご多分にもれず吝嗇(りんしょく)家でありながら好色家でもあった。
まだ今ほどの規模ではなかった頃、ある時社長の剛のところへある男がアポイントなしでやってきた。金沢の店舗の工事を請け負った大手内装工事会社の孫請けの工務店社長、氷室伊三郎だった。わざわざ金沢から上京してきたことに興味をそそられて剛は会ってみることにした。伊三郎の訪問理由は工事の未払金を払ってくれというものだった。剛の会社が店の仕上がりに難癖をつけて元請け会社に支払ったのは、契約金にはるかに満たない金額だった。少ない投資で無理な拡大路線を図った当時の剛のヤクザなやり口だった。東京の大手内装会社はそのまま下請けに半額しか払わず、更に地元の伊三郎の会社には大きく原価割れした金額しか入金がなかったのだった。零細企業の会社は窮地に陥った。伊三郎は剛の会社に直談判することは全くのお門違いなことは百も承知だったが、下請け元請けに抗議しても梨の礫(つぶて)で話にならない上に時間の猶予がなかった。馬鹿だとは承知で思いあまって直談判に来たのだった。剛はひと通り話しを聞くと、あなたには気の毒だと思うがと言って、筋を通して出直して来いと、威丈高に帰した。

剛の耳に、金沢の孫請け会社が二度目の不渡りを出して倒産し、その後社長の伊三郎が亡くなったと情報が入ったのはその三週間後だった。寝覚めの悪い剛はスケジュールを調整し金沢へ行くことを決めた。
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