2016年6月30日木曜日

小説「月に降る雨」9

所長が長い話を終えると彼もまた言い得ぬ疲労感を覚えた。希伊は気丈に言った。
「父は...、いえ、永山剛はその後どうしたんですか」
「乳児院へ行ってまだ生後二ヶ月に満たない女児を里親として引き取ったんです。その後東京で正式に養子にして、法的にはちゃんとした親子の関係になりました」
希伊は全てを理解した。長年胸の奥に沈んでいた冷たく重い氷がやっと溶け出すのを感じた。
「いろいろとありがとうございました」
「いえ、まだ少し調査しきれていない部分もあってここで調査を打ち切ることは本意ではないんですが。もし良かったらお母さんの、あ、いえ、あなたの実母の氷室さんの追跡調査をさせてもらえませんか」
顧客に対する言葉からひとりの女子高生に対する言葉に変えて所長は続けた。
「これは例外中の例外だけどね、お金は要らないよ。そのかわり仕事の合間にしか出来ないので時間はたっぷりかかると思うけどね」
希伊は恐縮して言った。
「ありがとうございます。お任せします。でも私はもう大丈夫です」
席を立ち上がった希伊の背中に所長が言った。
「永山さん、報告書まだ見てないよね。ちょっとその2ページ目を見てごらん」
希伊が怪訝そうにページを繰ってみた。
「お父さんの名前が書いてあるでしょ。氷室伊三郎って。その横に妻の名前が、つまりあなたのお母さんの名前が書いてあるから見てごらん」
ワープロで印字された母の名前を見て希伊の瞼(まぶた)は一瞬で熱を帯び、みるみる大粒の涙が頬を伝い落ちた。
氷室伊三郎の横に記載された名前は氷室希沙子。ふたりの名前の一文字ずつを取って、女の子の名前を「希伊」にしたのだった。

希伊はやっと全てを語り終えた。
「自分が何者かときどき分からなくなる時があるの。両親は育ての親であって本当は他人だった。本当の両親はもうこの世にいないなんて。青臭い言い方だけど、自分はいったいどこから来てどこへ行くんだろうって。独りきりになった時には最悪。もっと最悪な時はね、独りで夜、月を眺めてるとき。自分があの灰色の月にひとりぼっちで置き去りにされたような気になるのよ」
普段は気さくで明るい希伊だが、それは自分の心の闇を糊塗(こと)するために、己を偽って明るく振る舞っていたのだと、龍一は思い至った。
「こんな自分が結婚したり子どもをもうけたりすることに、どうしても違和感を感じるのよ。考え過ぎだと思うよ。自分でも笑っちゃうくらいにね。でもどうしても自分の存在を自分で確認しないうちは、一歩も前に進めないもう一人の私がいるの」

話を聞き終えた龍一は希伊にかける言葉を慎重に選んだ。心の中でいくつもの言葉が溢れるように湧いては消え消えては湧き上がった。最良の言葉を選ぼうとするあまり、結局混沌の渦に足をとられてなんと声をかけていいのかわからなかった。迷った末に言葉ではなく無言のうちに自然と体が動いた。希伊の小柄な体をしっかりと抱きしめるしかなかった。
いつまでそうしていたのだろう。外の雨脚がいっそう激しくなってきた。やっと龍一が口を開いた。
「俺は、今ここにいる希伊のことが好きなんだ。昔のおまえじゃないし、未来の希伊じゃない、今ここにいる希伊がいいんだ。昨日までのことは忘れて今日から俺と一緒に歩いていけばいい」
言いながらすぐに龍一は、ひとつ言葉を間違えたことに気がついた。希伊が言った。
「昨日までのことは忘れて?」

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