2016年9月5日月曜日

小説「月に雨降る」22

翌朝龍一たち三人は、天文館からリムジンバスに乗り鹿児島空港へ向かって車中の人となった。短時間の道中だったが三人ともすぐ眠りに落ちた。特に龍一は一昨日からたっぷり体にまとわりついた累積の寝不足で熟睡と言っていいほどの深い眠りを貪った。空港へ着き全国的な快晴のもと十時の便で羽田へ飛んだ。龍一の座席は機体の後ろのほうだったがこの日はラッキーだった。主翼のすぐ真横の席では眼下の景色はほとんど見えないからだ。今日の快晴の日にこの席になったことを嬉しく思った。静岡近くになると左手の眼下にぽっかりと口を開けた富士山の火口が間近に迫ってきたのだった。ほぼ真上から見るそれは月のクレーターをもっと高く作り上げたような精緻な造形物のようだった。あの富士山を空の上から見下ろしている自分が不思議でならなかった。普段は都会の地べたを這いずり回るようにして生活しているのに、今の自分は空に浮いて圧倒的に非現実的な光景を目の当たりにしている。

龍一はこんな状況に置かれると、いつも心が二十六歳の時に失ったひとりの女のことを想い起こす。希伊のことだった。あの土曜の晩の月を見上げながらベランダに佇む希伊の虚ろな横顔。柔らかい唇と熱い小さな舌先の感触。滑らかな肌の高低差の大きい起伏に富んだ丘陵と、ショートカットの髪の匂い。希伊が初めて口にした出自の秘密。生来の明るいはじけるような笑顔と、その裏に隠してきた複雑な哀しい生い立ち。翌朝の豪雨の中で町じゅうを彷徨したこと。灰色の月に降り注ぐ冷たい雨の感触。老人とサチコとの出会い、そして由美に助けられたこと。あれから十五年間、龍一はほぼ毎日のように希伊のことを想った。なにげない日常のふとした瞬間でもそれは不意にやってくる。特に雨の日の朝と月が出ている晩はその記憶が顕著に蘇って来て、龍一の心の襞がぞわりと波打つのだった。
あの日以来龍一はその希伊への想いを断ち切るように仕事に埋没するようになった。目の前にある仕事に真摯に向き合っている時だけはあの記憶の呪縛から解放された。仕事帰りの夜道ではなるべく空を見上げないようにした。そこに月が浮かんでいると思い出さざるを得ないからだったのだが、しかし最後にはどうしても上を向いて暗い夜空に月を探してしまう自分がいるのだった。
しかし本当は龍一には分かっていた。自分は希伊の記憶から逃れようとしているのではなく、むしろあの記憶にすがって生きていることを。年を重ねるごとに数年間一緒に暮らした希伊の記憶の映像が少しずつ色を失い、徐々に細部が消失し始めることが恐怖だった。昔撮ったフィルムの写真が年を経るごとに少しずつ色褪せて黄変してしまうように。そんな過去の記憶に翻弄されている自分は男として情けないと思った。見えない誰かにそれを指摘され嘲笑されるのが怖かった。その後勢いで結婚し子どもをもうけてからも、誰が見ているというわけでもないのに、それを悟られないように慎重に生活をし大胆に仕事にのめり込んだ。

羽田行きの飛行機はとうに富士の上空を過ぎ行き、もうすぐ神奈川だったが龍一はまだ過去と現在の思いに耽っていた。

そして四十を過ぎた今、俺は二十も離れた恭子とつきあっている。下手をすれば親子ほどの開きがあると言えなくもない。あの恵比寿の夜以来もう何度も肌を重ねて来た。しかしお互い独身なのに普通と違うつき合い方をしていた。それは土日の休日は龍一の娘の少年野球チームへ行ったり溜まった家事をこなしたりで、恭子とは一度も休日のデートをしたことがないことだった。これについては恭子は口に出さないまでも少し淋しい思いをしていることは明白だった。社内でも1、2を競うほどの奇麗な子で性格も良く、当然男性社員からも人気があり、龍一が恭子本人から聞いただけでも、数人からのかなり熱いアプローチがあったらしい。同じ設計部の信介もその一人だった。それでも龍一は不思議と嫉妬心は起きなかった。それはすでに恭子は自分のものになっているという優越感からの余裕も確かにあったのだが、恭子のことを独占したいと思うことはないのだった。恭子のような若い女の子はこれからもっと人生を楽しみ笑い、時に苦しみや悲しみもたくさん経験して、もっといい女になるべきだと思うのだった。それには龍一が男のエゴで恭子の交際範囲や行動半径を制限すべきではないと思っていた。もちろん隠れて別の男と関係を持ったならば人並みに激高はするだろうし、悲しみの感情が全身を覆うだろうとは思うのだが。

龍一には恭子との再婚の考えはなかった。それなのにこのまま付き合いを続けることに後ろ髪を引かれる思いがあったのだが、それよりも再婚に対して後ろ向きな一番の理由は、希伊の幻影をいまだに心の中で灯しているからだった。無風状態の暗闇で一本の細い蝋燭が火を灯しているように。もし他人に女々しいと言われようがこればかりは手放すつもりはなかった。あの時代の記憶の写真はどんなに色褪せても処分する気はない。恭子と食事をしていても頭のどこかで目の前の女が希伊だったならと、身勝手な思いに遠くを見る目になることがあった。そんな時恭子は訝(いぶか)し気に表情を曇らせるのだが、あえて龍一に詰問するようなことはなかった。恭子なりに何か感じるところがあるのかもしれない。
そんな過去の女の記憶を捨てきれず、若い子と再婚する意志もないのにつき合うことにある種の罪悪感を覚える龍一だった。付き合いを重ねれば重ねるほど、ちょっとずつ恭子の何かを傷つけてしまっているのではと思うのだった。


宙に浮かんだ風船に横から針を刺すように、龍一のそんな物思いを打ち破ったのは、間もなく羽田に到着するというCAの機内アナウンスだった。
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