2016年10月17日月曜日

小説「月に雨降る」27

龍一がかな江の横顔を窺うと、丁寧な言葉遣いとは裏腹に、どこか楽しそうに目尻を下げていた。いたずら好きの女の子が同級生にドッキリを仕掛ける時みたいに。とりもなおさず希伊もそんな明るい性格だった。つい一ヶ月ほど前、残業で遅くなり灯の消えた暗いアパートに帰った時に、急に後ろから希伊が抱きついてきて龍一を驚かせたことがあった。互いに向き直ってからびっくり顔の龍一を見て、いたずら好きな小学生のようにからからと笑い、改めて豊かな胸を龍一に預けて抱きついてきた希伊だった。
「城崎さんは希伊のことを希伊ちゃんって言うんですね。なんか安心しました。さっきの永山の奥さんは会話の中で一切名前を言わずに、ずっと希伊のことを『あの子』とばかり言ってましたが」
かな江はにっこり笑うと言った。
「私と希伊ちゃんとの関係は、ただの家政婦と雇い主のご令嬢の関係ではございません。
私が永山家に家政婦としてお世話になったのは私が二十歳くらいの頃からでした。あれから二十六年間ずっとです。あら、私の年がばれましたわね」
かな江は龍一に顔を向けて続けた。
「神島さん。二十六年間という数字で思い当たることはございませんか」
龍一の頭に何か引っかかるものがあった。自分も希伊も二十六歳だ。
「あっそうか、希伊がこの家に引き取られて来た時から城崎さんは家政婦として勤めているんですね」
柔和な顔でかな江は頷いた。
「そうです。つまり私は希伊ちゃんのお守役みたいな形で雇われました。当時家政婦は二人いたんですが、赤ん坊が一人増えて専任で面倒を見る女性が必要だろうとのことで。普通なら経産婦で育児経験のあるベテラン女性が良いのでしょうけれど、永山家との遠い縁故関係もあったり、短大を出ていわゆる家事見習いで就職することもなかった若い私に白羽の矢が立ったんです。二人の家政婦のうち先輩の一人と交互にお世話をすることになりました。もともと子ども好きだった私は希伊ちゃんのお世話に夢中になりました。さすがに母乳を与えることは出来ませんが、夜中にミルクを作ったり、おむつを替えたりもしましたんですよ」
その時あの奈津子という人はのうのうと暖かいベッドで安眠を貪っていたのだろうか。そのことは考えないようにした。また気分が悪くなりそうだったからだ。
「私は希伊ちゃんとあの家で一緒に育ったようなものです。奥様は養女である希伊ちゃんを養母として育てるというよりは、悪く言えば管理するような感じで、本当の育児や一緒に遊んだりご飯を作ったりは、私が中心になってやりました。先輩家政婦にいちいち訊いたり一生懸命育児や料理の本を読んで勉強したり。小学生になっても中学に上がってからも、宿題を見たり思春期の悩みを聞いてあげたりと、私はうんと若い母親のような、或いはうんと年の離れた姉のような、そんな不思議な絆で繋がっていたんです。希伊ちゃんも表面上は奥様の言うことを忠実に守りながら、本当に心を許していたのは私だったと思います。あの日曜日に家を飛び出して行った時も最後に私に、かな江さん今まで本当にありがとう、かな江さんのことは一生忘れませんって言って、泣きじゃくりながらお互い抱き合いました」
それを思い出したのか、かな江の声には湿り気が帯びて少し鼻をすすった。
そうだったのか。希伊はこの城崎という女性に可愛がられ、人並みにちゃんとした明るい女の子にすくすくと育ったのに違いなかった。産みの親よりも育ての親と言う。いや少し違う。金沢の顔を知らぬ両親の血を受け継ぎ、本当の育ての親である、かな江の愛情でしっかりと希伊という人格が育まれていったのだろう。
「あら、いけないこんな時間。別の家政婦さんにすぐに戻って来るからと言って神島さんを追いかけてきたんですけど、もう帰らなきゃいけません」
「追いかけていらしたのは、僕にわざわざ城崎さんと希伊とのことを話すために?」
「はい、もちろんそれもありますが」
かな江は龍一からちょっと目をそらして、何かを躊躇っているようだった。
「奥様は確かに希伊ちゃんの居所は知らないと思います。旦那様も諦めてしまったと思いますが、もし直接旦那様にお会いになるお気持ちがありましたらと思いまして」
そう言ってかな江がポケットから取り出した紙片には090で始まる番号が書かれてあった。
「旦那様は仕事用と個人用と携帯電話を二つお持ちです。私には緊急の用件の時だけ個人の番号へかけるようにと言われてまして、この番号を教えられました。他人である神島さんにこれを教えることはいけないことは重々分かっているんですが」
「分かりました。ありがとうございます。もしこの番号にかけることがあっても、決して城崎さんにはご迷惑にならないように気をつけます」
紙片を受け取った龍一は頭を下げて礼を言った。それに対しかな江は龍一よりももっと深々と頭を下げた。
「でもどうして初対面の僕にここまで親切にして下さるんですか」
「だってあの希伊ちゃんが選んだ人ですもの。悪い人なわけがありませんわ」
それにと言ってかな江は言葉を続けた。
「神島さん。もし希伊ちゃんの消息が分かったら私にも是非お知らせ下さいませんか」
龍一はにこりと笑みを浮かべて言った。
「もちろんです。今までの城崎さんのお話を伺った以上、所在が分かったら真っ先にお知らせするのが当然の義務だと思ってます。本当の育ての親ですもんね」
二人は互いに携帯番号を交換して別れた。

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